聖書のみことば
2022年4月
  4月3日 4月10日 4月17日 4月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月17日イースター礼拝音声

 エマオにて
2022年イースター主日礼拝 4月17日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第24章13〜35節

<13節>ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、<14節>この一切の出来事について話し合っていた。<15節>話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。<16節>しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。<17節>イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。<18節>その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」<19節>イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。<20節>それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。<21節>わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。<22節>ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、<23節>遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。<24節>仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」<25節>そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、<26節>メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」<27節>そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。<28節>一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。<29節>二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。<30節>一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。<31節>すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。<32節>二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。<33節>そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、<34節>本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。<35節>二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

 ただいま、ルカによる福音書24章13節から35節までをご一緒にお聞きしました。17節に「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった」とあります。
 最初のイースターの日の夕暮れ、甦りの主イエスが二人の弟子たちのもとを訪ね、その歩みに伴ってくださった時、弟子たちはまだ「暗い顔をしていた」と言われています。このことは、イースターの喜びというものが、ひとりでに訪れるものではないということを表しています。主イエスが死と戦われ死に打ち勝って復活なさっても、そのことによって自動的に人間に喜びが訪れるのではありません。甦りの主が私たちのもとを訪れてくださり、確かに主イエス・キリストが私たちと共に歩んでくださっている、主がわたしと共におられるのだということがはっきりと受け取られてこそ、イースターの喜びは真に深く大きく私たちに迫ってくるのです。
 この二人の弟子たちは、主イエスの復活のことを何も知らなかったというのではありません。彼らはこの朝、主イエスを葬ったはずのお墓が空になっていて、そのことに気づいた婦人の弟子たちが天使から「イエスは復活なさったので、お墓におられない」と告げられたらしいという噂を耳にしていました。しかし当然のことながら、二人にはそれが本当のことだとは思えません。そのような噂は作り話に過ぎないのであって、主イエスの亡骸は人目のつかない場所にひっそりと隠され朽ち果てる途中なのだと思っています。それは、イエスという人間の体が朽ちていくというだけではありません。主イエスが死んだという衝撃的な事実は、この二人の弟子たちにとっては、自分たちがこれまで思い描いてきた夢と希望が死んで滅んでいったということでもありました。
 彼らはイエスという人物に限りない期待を寄せ、希望を抱いていました。この優れた人物が「悔い改めよ。神の国は近い。神さまの恵みの御支配が今、訪れてくる」と告げていたことに全ての思いをかけ、また彼ら自身の人生をこの方に託していました。ところが、あっけなくこの方は捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまったのでした。二人の弟子にとって夢と希望の中心にいたはずの方が、今や取り去られました。主イエスはもはや、この世の人ではなくなっているのです。今はもう主イエスがいない、自分たちが期待していたものが何もない、そういう虚脱感がこの二人の弟子たちを重く捕らえています。「すべてが終わってしまった。神はもう死んでおられないのだ」と言わんばかりの思いが、二人の弟子の心をすっかり塞いでいるのです。こういう荒んだ投げやりな思いというのは、もしかすると私たちも時に経験させられることがあるかもしれないと思います。

 私たちがこれまで信じてきたこと、つい昨日までは当然そうだと思ってきた事柄が、「果たして本当なのだろうか」と疑う心が私たちの中に芽生え、抑えきれなくなることがあるかもしれません。「『主イエスは復活し甦えられた』と世界中でイースターが祝われているけれど、これは単に、私たち人間がそうあって欲しいと願っている宗教的な気分に過ぎないのであって、子供騙しの作り事ではないか。それに何と言っても私には、イエスが復活したと確認できるような証拠が何も与えられていない」と思ってしまうのです。
 そして、そう疑い始めると、周りの人たちが盛んに喜び祝っているイースターの喜びも、自分にとってはどこかよそよそしい他人事のように感じられて、群衆の中の孤独のような気持ちになってしまいます。そして、「とにかく虚しい偽り事には決して騙されないようにしよう。今からはどんな幻想にも惑わされることなく、ただ自分にとって確かだと分かること、事実だと感じられることだけを見つめて歩んでいこう」と思ったりするのです。

 イースターの喜び、主イエスのご復活が祝われている、その最中にあって、それに背を向け一切が幻想に過ぎないのではないかと疑い、寂しく生きてしまうということが、ひょっとすると私たちにも、無いとは言い切れないように思います。主イエスの復活が分からないない、そういう寂しさや悲しみが自分を捕らえるということは、確かにあると思います。主の復活を信じている人たちからすると、復活の喜びに背を向け信じられないと思っている人は気の毒に感じられるかもしれません。けれどもその人自身は、「確かにわたしは寂しく哀れな者にすぎない。しかし、本当はあなたたちも同じなのだ。ただあなたたちは、そのことを知らずに過ごしているだけだ。わたしは少なくとも、自分がどんなに哀れな孤独な者であるかということ知っている。その点で、わたしはあなたたちよりもマシだ」と言うに違いないだろうと思います。そして、そう感じている人たちを人間の理屈によって説き伏せることはできないように思います。口先の理屈で相手を言い負かすことによって相手に信仰を植え付けることは、私たちにはできないのです。

 けれども、人間にはできないことでも神にはお出来になります。主イエスの復活の知らせに背を向け寂しく立ち去ろうとしている二人の弟子たちのもとに、主イエスが歩み寄り近づいてくださるのです。15節に「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」とあります。復活を信じられずにいる二人の弟子たちのもとに、甦りの主イエスご自身が歩み寄ってくださり、共に歩いてくださいます。
 そこでは一体何が起こるのでしょうか。当座は何も起こらないのです。16節に「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とあります。二人の弟子は、一緒に歩んでいる方がどなたであるか、分かりませんでした。深く信頼を寄せてきた方が亡くなって、今まで思い描いてきた夢と希望がすっかり消し飛んでしまった、そう思っている深い悲しみのせいなのです。

 しかし、この新たに加わった3人目の旅人、その見知らぬ人は、道すがら、二人の弟子たちに聖書を説き明かしてくれました。ここに言われている聖書は旧約聖書のことです。そして二人の弟子たちは、もちろん旧約聖書の言葉にはよく馴染んでいたのです。「聖書のことはよく聞いて知っている。分かっている」そう思っていた言葉なのに、この見知らぬ人がその言葉を説き明かすと、急に今までとは違う別の話を聞かされているように感じられたのです。よく分かっているはずの話、何度も聞いてよく知っているはずの言葉が、突然不思議と全く新しく奥深い事柄を指し示しているということに気づかされ、この二人は圧倒されます。
 そして、この見知らぬ人物からもう少し聖書の話を聞かせてもらいたいと願うようになるのです。

 エマオの村に着いた時、この二人の弟子は見知らぬ同行者を引き止めたと言われています。28節29節に「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」とあります。確認しておきたいのですが、家に入った時点でも、まだこの二人には同行している人物がどなたなのかは分かっていません。従って、二人はまだこの時点でも、主イエスの甦りを自分自身としては信じていない、そういうつもりでいます。
 ところが、実際に起こっていることから言えば、二人は既に復活の主に出会っていて、甦りの主イエス・キリストに伴われているのです。そして、主イエスが説き明かしてくださる聖書の言葉を聞いて、心の中に温かな思いが生じて、そしてすっかり荒んで自分は孤独で哀れだと思っていたところから、何かが明るく開けてきそうな予感を感じていました。ですから二人は、この見知らぬ旅人から聖書の話を聞きたいと願ったのです。
 この旅人が自分たちを離れて更に旅を先に進もうとしていたのを引き止めて、「どうか私たちのもとにもう少しいてください」と願いました。どうして一緒にいて欲しいのでしょうか。聖書の言葉をもう少し聞きたいと思ったからです。主イエスは二人の弟子の願いを聞き入れてくださいました。この家は宿屋だったかもしれませんが、もしかすると二人の弟子どちらかの家だったのかもしれません。いずれにしても、この時部屋の中にいたのは、二人の弟子と主イエスだけでした。そして、この三人が夕食を共にするということになりました。
 すると、そこで思いがけないことが起こったのでした。道中見知らぬ同行者だと思ってきた人物が、この部屋の中で突然にテーブルの上のパンを取り、テーブルマスターの役目を果たし始めたのです。「家に入って共に宿ってください」と頼んだのは弟子たちの方ですから、この食事に際しても、この見知らぬ第三の人物は完全に客人だったはずです。ところが客人であったはずのその人が、食卓の主人の役を果たすのです。パンを取り賛美の祈りをささげ、そのパンを両手で引き割いて二人の弟子たちにお渡しになります。

 ところが、その仕草、その言葉、その様子は、不思議なことですが、弟子たちにとっては確かに見覚えがあり、聞き覚えがありました。主イエスが十字架にかけられる前の晩、主イエスが弟子たちと共に過ぎ越しの食事をお取りになり、パンを割き、杯を皆に配った、そういうことがありました。弟子たちの目がこの食卓の交わりにおいて開かれ、そして自分たちと共に歩いてきた方がどなたであったかということが分かるようになったのです。30節31節にかけて、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」。ところがさらに不思議なことが続いて起こります。二人の目が開かれて、自分たちに伴っていた方がどなただったかが分かった途端に、その方の姿がふっとかき消されて、見えなくなったのです。31節に「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と言われている通りです。
 二人の弟子はどんなにか驚いただろうと思います。今まで自分たちと共に歩んでいたのが復活した主イエス・キリストだったということも驚きですが、その姿が急に見えなくなったことも本当にびっくりすることだったに違いありません。一体主イエスの姿が見えなくなったのはどういうことなのでしょうか。

 これを合理的に説明することはもちろんできません。しかしある人々は、「この時、主イエスは二人の弟子の中に姿を隠されたのではないか」と想像しています。弟子たちは先に、「私たちと一緒にお泊りください」と願って、主イエスに共に宿っていただきました。そして主イエスは、二人の弟子の願いに完全に応えてくださるかのように、二人の中に姿を消して、彼らの中に住んでくださるようになったのだと言うのです。もちろんこれは理屈で、合点がいくような説明にはなっていません。しかし、キリスト者の経験からすると、そういうことは確かにあるように思うのです。「主イエス・キリストは、わたしの目の前に他者としているというのではなくて、このわたしの中に来てくださって、わたしの中に住んでくださっている。単なる客人としてわたしの前にいるのではなくて、わたしの主人として、わたしの中におられる」と感じる瞬間というのは、あるのではないでしょうか。
 主イエスの復活がどうして起こったのか、どんなふうに起こったのか、そもそもそんなことが起こり得るのか、そういうことは分からないとしても、大変不思議なことですが、「甦りの主イエスが、確かにわたしの中に来てくださっている。今日もわたしと共に歩んでおられる」と思うことが、私たちにはあるのではないでしょうか。

 このエマオの出来事が語っていること、この出来事で特徴となっているのは、御言葉の説きき明かしを主イエスがしてくださったということと、主イエスが主人となってくださった食卓の交わりがあったということです。
 そして実は、この二つのことが、今日私たちが捧げている礼拝の原型にもなっているのです。礼拝の中で聖書が朗読され、その日の御言葉が説き明かされます。私たちはそこでは、肉眼で見ることはできませんけれども、礼拝の度に主イエスご自身が、私たちと共に立っていてくださり、私たちに御言葉を説き明かしてくださっているのです。
 そして今日の礼拝で持たれますが、主イエスを記念しその愛を覚えるための食事、聖餐式が持たれます。この聖餐式においてもやはり、主イエスがおられるということが肉眼で見えるわけではありませんけれど、その食事の席に確かに主イエスが私たちと共にいてくださる、私たちを食卓に親しく招いて、主の御体をもって養ってくださるのです。

 私たちが毎週捧げている礼拝は、このエマオで起こっていることをそのまま行っているようなところがあります。ですから今日の記事は、一つのエピソードというのではなくて、私たちが毎週捧げている礼拝の原型のような記事なのです。
 もしも私たちが捧げている礼拝の形が、ここに語られている記事から遠ざかってしまうと、例えばインターネットによる中継を見て礼拝に代わるものだと考えてしまうような時には、おそらく今日の記事も、私たちから遠ざかってしまうに違いありません。「主イエスが宿ってくださるその同じ部屋に集められ、手が触れ合える程の距離で、主イエスが親しく御言葉の説き明かしてくださる」、そういう中で、エマオの二人の弟子たちは、親しく主イエスが臨んでくださっていることに気づかされました。「復活された主イエスが共におられる」ということは、決して頭の中であれこれと思い巡らした結果、理解できたというような、そんな分かり方ではないように思います。
 もちろん、思索することによって主との交わりを近く感じるという方もいらっしゃるだろうと思います。けれどもその場合にも、根本的には、まず主が私たちに伴い具体的な主との交わりの中に置いてくださっている、その交わりが先にあって、その交わりのことをいろいろ考えていく中で、「確かにわたしは主と共にいるのだ」と分かるようになってくるように思います。

 エマオに向かう道程で主イエスに出会っていただいた二人の弟子たちは、32節で「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」とあります。主イエスによる御言葉の説き明かしは、弟子たちの心を温かく照らし、また燃やしてくださいました。主イエスによる御言葉の説き明かしは、私たちの心の中を明るく照らし、温かく燃やしてくださるのです。
 私たちは、礼拝を捧げる度に、御言葉によって自分の心が温かにされることを感じる時があるのではないでしょうか。そして、そのように御言葉に励まされ慰められ、勇気づけられながら、「確かに甦りの主がわたしのもとを訪れてくださっている。主イエス・キリストがわたしの中に来てくださっている」ということを確認するようでありたいのです。
 私たちを温め、殺伐とした荒んだ思いから解放して、感謝と喜びを感じる新しい人間に変えてくださる、そういう主がおられることを、信仰の目が開かれ確認できるように、聖霊の訪れを祈りたいと思います。聖霊が働いてくださる時に、私たちは確かに復活の主が共にいてくださるのだということを確認して、力を与えられるからです。

 イースターというのは、今日この日限りで終わるのではありません。ここから更に私たちは、ペンテコステへと向かわされます。主イエスが復活したという事実で終わるのではなく、そのことを弟子たちが確かだと受け止め、力を与えられて、さらに教会として歩んでいく、そういう始まりがこのイースターの先には備えられています。

 私たちは、「主イエスが甦られた事実は確かだ」と、ただ言い張るのではなくて、主が伴ってくださることに慰められ力を与えられながら、「この主がわたしの主です。わたしの中に甦りの主が共に歩んでくださいます」と言い表す僕として、育てられていきたいと願います。お祈りを捧げましょう。

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